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最高裁判所第二小法廷 昭和57年(オ)1015号 判決 1983年2月18日

上告人

石毛孝

上告人

石毛智惠子

上告人

石毛千晴

右法定代理人親権者

石毛孝

右三名訴訟代理人

弘中惇一郎

被上告人

丸五起業株式会社

右代表者

五位渕金次

被上告人

塙初江

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人弘中惇一郎の上告理由第一点ないし第三点について

昭和五二年七月二六日の交通事故により死亡した幼児(当時満二歳の男児)の将来得べかりし利益の喪失による損害賠償額を算定するにあたり、原審が昭和五四年賃金構造基本統計調査報告第一巻第一表中の産業計・企業規模計・学歴計の男子労働者の平均賃金額を基準として収入額を算定し、その後の物価上昇ないし賃金上昇を斟酌しなかつたとしても、交通事故により死亡した幼児の得べかりし収入額の算定として不合理なものとはいえず、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、独自の見解に基づいて原判決の損害額算定の違法をいうか、又は判決に影響を及ぼさない事項についての理由不備、判断遺脱の違法をいうものにすぎず、採用することができない。

同第四点について

不法行為における過失相殺については、裁判所は、具体的な事案につき公平の観念に基づき諸般の事情を考慮し、自由なる裁量によつて被害者を斟酌して定めるべきものであることは当裁判所の判例とするところであり(最高裁昭和三九年(オ)第三二八号同年九月二五日第二小法廷判決・民集一八巻七号一五二八頁)、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて原審が過失相殺により損害額を一〇パーセント減額したことが著しく不当なものということはできない。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(木下忠良 鹽野宜慶 宮﨑梧一 大橋進 牧圭次)

上告代理人弘中惇一郎の上告理由

第一点 法令の解釈・適用の誤まり

(一) 原審判決の引用する第一審判決書は、上告人が、今後二〇年高度の蓋然性をもつて年五パーセント程度の物価上昇ないし賃金上昇があるとして逸失利益を計算請求したのに対し、単に「これによつては原告らの右主張事実を認めるに不十分であり、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない」として斥ぞけた。

(二) ところで、過去の一定の事実の存否についての立証と異なり、将来の逸失利益の額については、文字どおりの証明ということはあり得ない。過去の事実に関する主張は、真か偽かのいずれかであり、したがつて、一定程度以上の立証をつくさない場合に偽として判断することは合理的である。

これに反し、将来の逸失利益の算定の基礎たる事実は、すべてどのへんに落ち着くみとおしが一番強いかというレベルの問題であつて、真か偽かということはありえない。獲得賃金額・余命・稼働年数・生活費等すべてそうであり、中間利息控除の根拠たる資産運用利回りもそうである。

全国民を対象にして調査した場合には、これらの数値のばらつきは左図のような最頻値を頂点とする対数正規分布に近い形になる。

たとえば、獲得賃金額についていえば、日本人のなかで年間b円もらつている人の数が一番多く、全体の平均値がc円で八割以上の人がa円もらつており、五パーセントぐらいの人がd円以上もらつているということである。

余命については、あとb年生きる人が一番多く、全体の平均値がc年、八割以上の人がa年以上、五パーセントぐらいの人がd年以上生きるということである。人身損害の被害者全体を寄せ集めた場合でも、賃金、年齢等の各要素について前図のようなばらつきを示すことは確実である。そして、現在の社会体制、経済構造、雇用構造、医療状況等について大きな変化がなく、極端な技術革新や戦争、革命、大災害等の不測の事態を考慮の外におくとすれば、将来の獲得賃金額、余命、稼働年数、生活費、資産運用利回り等についても、おおむね、現在と同じような分布型を示すことが予想できる。この場合、aないしdの具体的な数値については、もつとも近い過去の統計数値が、将来の数値にもつとも近似していると考えられる。このようにして、最新の統計数値を用いて将来の逸失利益を算定するのであるが、しかしながら、本来、この数値ないし分布があてはまるのは、全人身損害被害者を寄せ集めた場合でしかない。特定の個人の事故なかりせばの将来についてその数値を確定することは絶対に不可能である。したがつて、特定の個人の逸失利益の算定については、次のいずれかに決めるしかない。

(1) 確定できないのだから0とする。しかし、0に落ち着く可能性はゼロなのであることを忘れてはならない。

(2) それ以上の数値のなかに大多数(たとえば、全体の八割)が含まれ、かつ、その数値に落ち着く可能性も相当程度あるaをとる。

(3) その値を示す人が、もつとも多いbをとる。

(4) 全体の平均値であるCをとる。

(5) ごく少数(たとえば、全体の五パーセント)の人のみが含まれる高い数値であるdをとる。

右のいずれをとるべきかは法的判断の問題であつて、証拠により決しうる問題ではない。

この場合。法的判断としてはaかc(bはcに近いから、bとcの差はそれほど問題にならない)をとるべきである。なぜなら原告に立証責任のあることを重視すれば、大多数の人がそれに含まれ、しかも、その値を示すことも十分あるaをとることになろう。最高裁判所のいう「控え目な計算」とは、aをとるべきことを示したものにほかならない。

また、損害の公平な分担という面を強調すれば、cをとるべきということになる。個々の人身損害被害者については、前図のようなばらつきがあるが、全加害者対全被害者ということを考慮すれば、cをとるべきであるといえる。特に賠償金の大半が保険から支払われているような場合には、cをとる合理性はより大きいといえる。なお、この場合0の値をとること(たとえば、余命をゼロとする)は、数値がそこに落ち着く可能性がゼロであることに照らして、到底妥当な選択といい難い、

以上のとおり、将来の逸失利益算定の要素たる事実については、通常の立証責任の考え方をそのままあてはめることはできない。真か偽か、ということではなく、どの程度と考えるのが妥当か、という別個の法的判断を必要とすることになるのである。

この場合、賃金・年齢・資金の運用利回り等はすべて将来のことであるのだから、これらを損害賠償額算定の基礎として数値を決めるさいには、同一の質の法的判断が行われるべきである。

しかるに、これまで、将来のベース・アップについてだけは、まつたく異なつた法的判断が行われてきた。すなわち、将来のことで確定できないからゼロだというのである。それはその数値に落ち着くみとおしがまつたくない数値を選択していることにほかならない。

(三) 将来ベース・アップについても、証拠により真偽を確定しうる問題ではなく、どの程度の数値になるかという予測の問題であるということは、余命等と共通している。したがつて、その数値を証拠上確定しえないということ自体は問題ではない。要するに、問題なのは、将来のベース・アップの程度を合理的に予測しうるか否かなのである。ところで、将来のベース・アップを合理的に予測することは可能である。現に、政府や多くの経済研究機関は、五年先、一〇年先までの予測をしている。その予測は、あてずつぽうのものではなく、将来のベース・アップの程度を左右する何十、何百というファクターを考慮したうえで、経済学の手法により、十分な根拠をもつて算出しているのである。しかも、政府はその数値を目標として、経済政策を展開していくのである。これらの何十、何百というファクターは、結果的に、予想よりもプラスの方向にいくときもあれば、マイナスの方向にいくときもある。しかし、何から何まで、予測を外れて、すべてのファクターがプラスになり、ベース・アップを極端に高くしたり、逆にすべてのファクターがマイナスになり、ベース・アップを極端に低くする、などという事態の起こる蓋然性はきわめて低いといえる。ことに、現在の社会構造、政治体制に変動がなく、極端な技術革新や戦争、革命、大災害等の不測の事態を考慮の外におくとすれば、極端な数値を考える必要はほとんどない。結局、将来のベース・アップの数値がどこに落ち着くかという蓋然性は、ベース・アップの程度を左右する何十、何百というファクターのプラス、マイナスが均衡した点を最頻値とし、ファクターが極端にプラスに偏したり、マイナスに偏する点をゼロに近い値とする連続線(その図形は前掲の曲線と同じ型になるはずである)のうえに存するといえる。この場合、c点(平均値、もしくはさまざまのファクターのプラス、マイナスの均衡点)を特定することはともかくとして、b点(ベース・アップの率が、その数値以上になる蓋然性の方が、その数値以下になる場合に比して、相当程度高いといえる点)を決めることには、さほどの問題がないはずである。

次に、およそ将来のベース・アップについては、マイナスということもありうるのだから、aもしくはcをゼロとして、ベース・アップを考慮の外におくべきではないか、という問題について検討する。

実は、この議論こそ、逆に、ベース・アップの上昇率について0という値をとることの不合理性を如実に示すものである。なるほど将来のベース・アップ率の論理的可能性としては、マイナス無限大から、プラス無限大までのすべての数値がありうるといえよう。

しかし、このことは同時に、0という数値自体が、プラス無限大からマイナス無限大の連続線上の一点にしかすぎない、ということを意味しているのである。マイナスの数値になる可能性があるからということは、0という数値を選択するということを根拠づけるものではない。将来のことはわからないからといつて、0の選択に逃げ込めるわけでもない。予測がむずかしいといつても、逃げ場はないのである。最判昭三九・六・二四(民集一八巻五号八七四ページ)のいうとおり、「あらゆる証拠資料に基づき、経験則とその良識を十分に活用して、できうる限り蓋然性のある」数値を見つけ出すしかないのである。

(四) ここで、賃金、余命等の逸失利益算定の諸要素が、実務上どのように取り扱われているかを検討したい。実質的には賃金ならびに余命についてはc(=平均値)がとられている。稼働年数および生活費については正確な平均値を計算しているわけではないが、理念的にはcをとつていると思われる。中間利息控除の証拠たる資産運用利回りについては、現在年間五パーセントとされており、これは一年もの定期預金の利率等からして、b(=最頻値)またはcに近い数値と思われる。

一般に、損害の公平な分担という面を強調すれば、cをとるべきであり、控え目な計算に従うとすればaをとるべきであることは、前述のとおりである。倉田判事は、実務の大勢は、証明度をそこまで深刻に考えず、平均収入、平均支出、平均余命という統計数値に頼りつつ、将来の逸失利益を算定していたとされているが、この算定方式は現在も変つていない。そうであるとするならば、将来のベース・アップ上昇率についても、ことは同様である。したがつて、少なくとも、aの数値をとつてこれを算入すべきであり、証明がなされていないという理由でもつてベース・アップ上昇を算入しないのは明らかに不当である。

(五) 立証責任の分配原理は、公平や正義であるといわれている。将来のベース・アップ率という、いかに最善をつくしても、文字どおりの証明ができないものについて、これを被害者に立証責任を負わせることにより、結果的に常に請求を認めないというのは、果して、公平や正義の理念に合致するのであろうか。不法行為訴訟において、同じく原告に立証責任があるとされている因果関係や過失については、原告が一定のレベルまでの立証をすれば、それが「絶対確実」の域に達しなくても、立証責任を果したものとされているのが現実である。損害賠償責任の有無に直結し、しかも、自然科学的には、有か無かのいずれしかありえない因果関係についてすら、このように考えられているのである。ましてや、損害賠償責任を肯定したうえで、どの程度の金額を支払わせるべきかというレベルの領域において、「絶対確実」な立証を求めるなどということが果して妥当なのだろうか。

当該被害者が被害にあわなかつたとすれば、どの程度の賃金を獲得できるはずであつたか、この額を算定するのが逸失利益の計算の目的である以上、賃金の上昇の問題を無視してよいはずがない。

以上のとおりであるから、将来の賃金上昇ないし物価上昇の問題についても、過去の統計資料を基にして現在の経済学の理論及び政府や諸機関の見とおしにより、その証明は尽されたものとして、将来の逸失利益を算定すべきである。

(六) ところで、右判決書の指摘している甲第五ないし第八、第一〇号証、第一一号証の一ないし三および第一二号証によれば、年率五パーセント程度の物価上昇ないし賃金上昇の存在について右に述べた程度の立証は尽されているというべきである。にもかかわらず、これを慢然と証明不十分としたのは、将来の逸失利益の計算について過度の証明責任を求めた結果にほかならず、結局原審判決には立証責任の法則の解釈・適用を誤つた違法があるものというべきである。

第二点 理由不備ないし判断遺脱の誤まり

上告人は原審において昭和五五年一〇月三〇日付準備書面を提出陳述し、その第八項(二)において、予備的主張として、「裁判所において相当の蓋然性のあると考えられる期間において年五パーセントの賃金上昇を算入すること」及び「年五パーセント以下であるというのであれば、妥当と考えられる範囲で賃金上昇を算入すること」を求めた。

しかるに原審判決は右の主張に対して何の判断もしていない。

よつて原審判決には、理由不備ないし判断遺脱の誤まりが存することは明らかである。

第三点 法令の解釈適用の誤まり、もしくは理由齟齬

原審判決は逸失利益の計算について、一審判決をそのまま引用している(原審判決書四丁表九行目〜裏一行目)。そして、一審判決は、「当裁判所に顕著である労働大臣官房統計情報部作成にかかる最新の「昭和五四年賃金構造基本統計調査報告」と題する書面第一巻第一表中の産業計・企業規模計・学歴計の男子労働者の平均賃金月額金二〇万六、九〇〇円、年間賞与その他特別給与額金六七万三、八〇〇円を基準とし」て計算している。

ところで、原審の口頭弁論終結は昭和五七年二月二日であり、その時点ではすでに半年以上前に昭和五五年賃金構造基本統計調査報告が発行されていたうえ、昭和五六年において前年比六パーセントを上回る平均賃金の上昇が存したことも公知の事実であつた。また、上告人らは、逸失利益の計算について、毎年の賃金上昇を算入すべきことを一貫して主張していたものである。

したがつて、逸失利益の計算について、一審判決と同じ考え方に立つのであれば、少なくとも原審裁判所に顕著である最新の昭和五五年賃金構造基本統計調査報告に基くべきことは明らかであり、さらに、これに口頭弁論終結時にすでに公知の事実となつていた昭和五六年の賃金上昇六パーセントを上乗させて算定するべきであつた。

原審は、逸失利益の計算につき一方において原審判決と同一の考えに立つとしながら、その内実において原審判決と異なり、最新の資料を用いなかつたものであるから、明白な理由齟齬が存するものである。

また、逸失利益の計算について、事故後口頭弁論終結時までの賃金上昇を加味することについては、すでに多数の判例(東京高裁判決昭和五五年一一月二五日判例時報九九〇号一九一ページ、東京高裁判決昭和五〇年三月一七日判決判例時報七八一号七二ページ、東京高裁判決昭和四九年九月二七日判例時報七六二号二七ページ等)が存している。

これに反し、一審判決の口頭弁論終結以降、原審の口頭弁論終結までの平均賃金の上昇を無視するような計算方法を合理的に説明することは不可能であり、結局原審は損害賠償の算定について民法七〇九条の解釈適用を誤まつたものというべきである。

以上のとおりであるから、原審判決は理由齟齬ないし法令の解釈適用を誤まつたものとして、いずれにしても破棄を免れない。

第四点 法令の解釈・適用の誤まり

原審は、「交差点を横断する場合には秀明を幼児用三輸車から降ろし、その手を握るなどして、直接(物理的に)秀明の行動を制御しうるようにして安全を確認した上で横断すべきところ、右配慮にかける点があつたものというべく、この点の配慮を尽していたならば、本件事故を回避しえたものと考えられる」(原審判決書九丁表一一行目〜裏五行目)ということを理由に被害者側に一〇パーセントの過失相殺をした。

ところで、原審の認定した事実は、

(一) 加害車輛は一〇トンダンプカーであつたこと

(二) 事故現場の交差点は、歩道の切れ目にあたる箇所で、歩道を通行する歩行者が横断することが予想される場所であつたこと(原審の引用する一審判決書一三丁表九行目〜裏一行目)

(三) 加害車輛は、一たん交差点を直進して通りずぎ、数秒間停車してから後退して交差点から約四メートル戻つた地点で停車し数秒後左折したこと(原審判決書五丁裏八行目〜六丁表三行目)

(四) 加害車輛運転者は、小型トラックの横を通り抜ける点に気をとられ、横断しようとしていた秀明に全く気付かなかつたこと(同六丁裏八行目〜一一行目)

(五) 千晴は自宅から交差点まで秀明の手を取つて歩いてきたこと(同七丁表八行目〜裏一行目)

(六) 千晴は、交差点手前で秀明を待機させ、巾員六メートルの道路を先に一人で横断し、車輛の有無を確認したこと(同七丁裏三行目〜七行目)

(七) その際加害車輛が後方(言問通り方向)から接近してきたが、左折の合図をしていなかつたこと(同七丁裏七行目〜一一行目)

(八) 千晴がいいよと合図したので、秀明が交差点を渡り始めたところ、その直後ダンプカーが後退し左折しようとしたこと(同七丁裏一一行目〜八丁表三行目)

(九) 千晴が何回も声と手で合図して秀明を制止しようとしたが間に合わなかつたこと(同八丁表四行目〜八行目)

(十) 加害車輛運転者は、接触地点から約七メートル走行した地点で、石毛千晴の叫び声を聞き、はじめて異常を感じたこと(同六丁表一〇行目〜裏一行目)

ということである。

以上の諸事実からすれば、

第一に、千晴は交差点までは秀明の手を取つて歩いていたのであり、交差点で秀明の手を離したのは、本件交差点の安全を確認するためであり、その時間も巾員六メートルの道路を横断して、前後左右を見わたす間のごく僅かな時間(一〇〜一五秒程度と考えられる)である。

第二に、千晴が道路を横断して前後左右の安全を確認している際に、加害車のダンプカーが左折の合図をすることなく通り過ぎて行つたのであるから、この車は、千晴が合図をし、秀明が渡り始めたごく短い時間に停止―→後退―→左折進入という行動をしたことになり、これは相当のスピードをもつて行われたことが明白である。

原審の認定したような前進地点で数秒停車、後退地点で数秒停車などという慎重なものであつたことはあり得ない。

第三に、加害車輛運転者は、事故前に秀明はもとより、千晴の存在についてもまつたく気付いていなかつたことが明白である。

乙第九号証の二の写真で明らかなとおり、加害車輛から、交差点を渡つた地点に立つていた千晴の姿を現認することはきわめて容易であり、かつ千晴は何回も声と手で秀明に合図していたというのであるから、これをまつたく見過ごした加害車輛運転者の責任は重大であり、当時いかに不注意乱暴な運転をしていたかを如実に示しているものというべきである。

一般に、本件のように、広狭差のある道路における歩行者の狭路横断中の車輛との接触事故については、歩行者の基本的過失割合を一〇パーセントとしたうえで、左記のような要素があるときはこれを減ずるとされている(参考東京三弁護士会交通事故処理委員会編・損害賠償額算定基準昭和五七年版一五ページ)。

a 住宅・商店街 五パーセント

b 児童・老人 五パーセント

c 歩車道の区別なし 五パーセント

d 車輛側の著しい過失 一〇パーセント

e 車輛側の重過失 二〇パーセント

本件においては、右のa、b、cのすべての要素が揃つており、これだけでも歩行者側の過失は0とされるべきケースである。そのうえ車輛側にきわめてスピーディーに通過――後退――左折という乱暴な運転をし、歩道上の歩行者の動静に全く注意を払わなかつたという重大な過失がある以上、歩行者側の過失を問題にする余地はないというべきである。

なお、原審は「本件事故地点付近の本件事故時ごろの車輛の通行量は、二分間に数台程度であつた」と認定し、これを被害者側の過失の根拠にしているが、甲第一六号証ならびに石毛智惠子の証言調書三〜五丁によれば、本件交差点を歩行者と交差し得る形で通行する車輛は、直進、左折、右折を合計しても三〇分間で0から三台程度にすぎないことが明らかである。原審の言う「二分間に数台」というのは歩車道の区別のある道路をそのまま直進通行する車輛(この車輛は歩道を歩く歩行者に何の危険もない)の数量のことであり、これを被害者側の過失の根拠として掲げたことは明らかに失当である。

原審は、秀明の身体を直接物理的に制御していれば事故は起らなかつたという。なるほど、その場合には本件の事故は起らなかつたかもしれないが、それをしなかつたことを直ちに歩行者の過失と決めつけるのは行きすぎである。本件事故車のような通り過ぎた車が突然バックし、歩行者を無視してそのまま左折してくることまで予想して秀明の手を瞬時も離さないなどということを求めるのは歩行者に対し過度の注意義務を課すものというべきである。

以上のとおりであるから、原審の認定した事実を基礎にしても、本件においては被害者側に、過失相殺の対象と目すべきような過失のないことは明らかであり、これと異なる結論を導いた原審は、民法第七二二条第二項の解釈適用を誤まつたものというべきである。

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